イールド・カーブとは?
債券の利回りと残存年限の関係を表わす曲線のことで、横軸に償還までの期間(残存年限)、縦軸に利回りをとり、年限ごとの利回り(イールド)をプロットしたとき、そのプロットした点を結んでできる曲線のことをいい、利回り曲線ともいいます。
外国為替、造船所建設案を幕府に提出。多くの反発をうけたが、小栗はそれまでの手腕によって徳川慶喜の絶大なる信頼をうけており反対派は沈黙。11月26日に実地検分が始まり建設予定地は横浜に決定された。費用は4年継続で総額240万ドル(現在の300億円)。これが徳川埋蔵金説につながったとも言われている。建設に多くの鉄を使用するにあたって、群馬県下仁田町中小坂で鉱山採掘施設との建設ラインを引く。これにより建設日数が短縮された。
慶応元年(1865年)11月15日、「横須賀製鉄所」(後の海軍工廠)の建設開始。規模と建設費用を考えると当時のアジア最大の建設計画である。28歳のフランソワ・レオンス・ヴェルニーを首長に任命。幕府公認の事業では初の外国人責任者だった。それにより職務分掌、雇用規則、残業手当、社内教育、洋式簿記など近代経営の基礎が日本に流通された。また製鉄所の建設きっかけに横浜仏蘭西語伝習所という日本初のフランス語学校を設立。ロッシュの助力もあり、フランス人講師を呼ぶ本格的な授業をしていた。卒業生には明治政府に貢献した人物が多い。
FX、陸軍奉行になった小栗は海軍だけではなく、陸軍の力を増すためにフランス師軍事顧問団の指導を受けさせ、洋式による陸軍を日本に広めた。事業や軍隊強化などを成功させた小栗だが、激務で死期を早めたという説もある。大隈重信が後年、「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と発言したほどの人物だった。
慶応3年11月9日、将軍・徳川慶喜は朝廷に大政を奉還。その後、鳥羽・伏見の戦いを経て、江戸城にて主戦派と恭順派の議論が繰り返されていた。議論といっても恭順派は勝海舟など少数であり、ほとんどの人間は主戦派であった。小栗は主戦を説いたと言われているが、倒幕を容認する発言もしている。
慶応4年(1868年)1月27日に罷免されると、小栗は「上野の権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)への土着願書」を提出し、一族そろって権田村の東善寺に移り住む。当時の村人の記録によると、水路を整備したり、学習塾を開くなど、静かな生活をしており、農兵の訓練をしていた様子はない。しかし3ヶ月後、官軍により小栗忠順は捕縛された。
同年閏4月6日朝4ツ半(午前11時)、小栗は取り調べもされぬまま、烏川の水沼河原(群馬県高崎市倉渕町水沼1613-3番地先)に3人の家臣と共に引き出され、斬首された。享年42。死の直前、大勢の村人と明治政府の役人が口論となると、小栗は「お静かに」と言い放つ。それが最後の言葉と言われている。
FXは遣米使節目付として渡米する直前、いとこの鉞子(父忠高の義弟日下数馬の娘)を養女にし、その許婚として駒井朝温の次男・小栗忠道を養子に迎えていた。しかし、忠道も高崎で斬首されてしまった。小栗家は、忠順の遺児・国子が成人するまで駒井朝温の三男で忠道の弟である小栗忠祥が継ぎ、その後、国子は矢野龍渓の弟・小栗貞雄を婿に迎えて家督は貞雄に譲られた。
文久元年(1861年)、ロシア軍艦対馬占領事件が発生した。小栗は、幕府の対処できる限界を感じ、英国大使に極秘に相談したという。
大政奉還後も徹底抗戦を主張し、箱根での陸海共同の挟撃策を提案したとされる。これは敵軍(官軍)が箱根関内に入った所を迎え撃ち、同時に当時日本最強といわれた榎本武揚率いる幕府艦隊を駿河湾に突入させて後続部隊を艦砲射撃で足止めし、箱根の敵軍を孤立化させて殲滅するというものであった。しかし慶喜は、この策を採用しなかった。後にこの策を聞いた大村益次郎が「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう」と畏れるほどの奇策だった(上記の戦術は勝が「こうすれば戦術的勝利を得られるが、その後、江戸は火の海になる」と慶喜を説得するために説いたという説もある。「小栗は登城していなかった」という説が正しいなら、勝が説いたと考えるべきであろう)。
FXの建設で相当な費用を幕府に負担させたという説もあるが、後年日露戦争の英雄東郷平八郎は、「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい」とし、地方の山村に隠棲していた遺族を捜し出し礼を述べた。その後、孫は内務省に勤務することにもなった。
慶応3年(1867年)、株式会社兵庫商社の設立案を提出。大阪の有力商人から100万両という資金出資をうけ設立したが倒幕につれ商社も解散。しかし資金100万両というのは当時設立されていた株式会社の中でも、大きく抜き出ている巨大企業であった。
勝海舟とは敵対していたと言われているが、勝の自伝にはそのような記述はない。勝の「造船所建設など、500年かかっても不可能」という言葉も作られたものという意見が多い。勝が無血開城をやり遂げたのと比べ、小栗は徹底抗戦を唱えていたため、敵対していると後世の人が判断した、という説もある。
天保7年(1836年)6月10日、江戸本所に御蔵奉行・小野朝右衛門高福の四男として生まれる。母は塚原磯女。9歳より久須美閑適斎より神陰流(直心影流)剣術を学ぶ。弘化2年(1845年)、飛騨郡代となった父に従い、幼少時を飛騨高山で過ごす。弘法大師流入木道(じゅぼくどう)51世の岩佐一亭に書を学び、15の歳に52世を受け継ぎ、一楽斎と号す。また、父が招いた井上清虎より北辰一刀流剣術を学ぶ。嘉永5年(1852年)、父の死に伴い江戸へ帰る。井上清虎の援助により安政2年(1855年)に講武所に入り、千葉周作らに剣術を学ぶ。また同時期、山岡静山に槍術を学ぶ。静山急死のあと、静山の実弟・謙三郎(高橋泥舟)らに望まれて山岡家の養子となり、静山の妹・英子(ふさこ)と結婚。身長六尺二寸(188センチ)、体重二十八貫(105キロ)と当時としては並外れた体格であった。
安政4年(1857年)、清河八郎ら15人と尊王攘夷を標榜する「虎尾の会」を結成。文久3年(1863年)、浪士組(新撰組の前身)取締役となり、将軍・徳川家茂の先供として上洛するが、間もなく清河の動きに警戒した幕府により浪士組は呼び戻され、これを引き連れ江戸に帰る。清河暗殺後は謹慎処分。浪士組は新徴組として再組織される。この頃、中西派一刀流の浅利義明(浅利又七郎)と試合をするが勝てず弟子入りする。
慶応4年(1868年)、精鋭隊歩兵頭格となる。江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、3月9日官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)にたどり着き、単身で西郷と面会。このとき、官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったという[1]。 西郷との談判において江戸開城の基本条件について合意を取り付けることに成功。その行動力は、西郷をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させた。3月13日・14日の勝と西郷の江戸城開城の最終会談にも立ち会った。5月、若年寄格幹事となる。
明治維新後は、徳川家達に従い、静岡県に下る。6月、静岡藩藩政補翼となり、清水次郎長と意気投合、「壮士之墓」を揮毫して与えた。明治4年(1871年)、廃藩置県に伴い新政府に出仕。静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任した。西郷のたっての依頼により、明治5年(1872年)に宮中に出仕し、10年間の約束で侍従として明治天皇に仕える。侍従時代、深酒をして相撲をとろうとかかってきた明治天皇をやり過ごして諫言したり、明治6年(1873年)に皇居仮宮殿が炎上した際、淀橋の自宅からいち早く駆けつけたなど、剛直なエピソードが知られている。宮内大丞、宮内少輔を歴任した。明治15年(1882年)、西郷との約束通り致仕。明治20年(1887年)5月24日、功績により子爵に任ぜられる。
明治維新後も剣術の修行は続けており、明治13年(1880年)、浅利義明より一刀流の免許皆伝を許された。明治18年(1885年)には、小野派一刀流第9代の小野業雄からも道統と瓶割刀・朱引太刀・卍の印を継承し、一刀正伝無刀流(無刀流)を開いた。
剣・禅・書の達人として知られる。書も巧みであり、人から頼まれれば断らずに書いたので各地で鉄舟の書が散見される。一説には生涯に100万枚書したとも言われている[2]。 また禅においても30里離れた三島の竜沢寺 星定和尚のもとに3年間足繁く参禅し、箱根で大悟したという逸話が残っている。禅道の弟子に三遊亭円朝らがいる。明治16年(1883年)、維新に殉じた人々の菩提を弔うため東京都台東区谷中に普門山全生庵を建立した。明治21年(1888年)7月19日9時15分、皇居に向かって結跏趺坐のまま絶命。死因は胃癌であった。享年53。全生庵に眠る。戒名「全生庵殿鉄舟高歩大居士」。