安定株主とは?
企業の株主のうち、その企業の業績や株価など目先の動きには左右せず、長期に株式を保有する株主のことです。
その企業の経営者や従業員持株会、その企業との取引関係などから株式を保有している金融機関や取引先企業などのことを指します。
資産運用を掲げ、幕府の海軍ではない「日本の海軍」建設を目指すが、保守派から睨まれて軍艦奉行を罷免され、約2年の蟄居生活を送る。勝はこうした蟄居生活の際に多くの書物を読んだと言う[13]。
勝が西郷隆盛と初めて会ったのはこの時期、元治元年(1864年)9月11日、大阪においてである。神戸港開港延期を西郷はしきりに心配し、それに対する策を勝が語ったという。西郷は勝を賞賛する書状を大久保利通宛に送っている
慶応2年(1866年)、軍艦奉行に復帰、徳川慶喜に第二次長州征伐の停戦交渉を任される。勝は単身宮島の談判に臨み長州の説得に成功したが、慶喜は停戦の勅命引き出しに成功し、勝がまとめた和議を台無しにしてしまった。勝は時間稼ぎに利用され、主君に裏切られたのである。憤慨した勝は御役御免を願い出て江戸に帰ってしまう。
明治元年(1868年)、官軍の東征が始まると、勝は幕府に呼び戻され、徳川家の家職である陸軍総裁として、後に軍事総裁として旧幕府方を代表する役割を担う。官軍が駿府城にまで迫ると徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城の無血開城を主張、ここに歴史的な和平交渉が始まる。
外国為替証拠金取引、山岡鉄舟が駿府で西郷隆盛と会談して基本条件を整えた。予定されていた江戸城総攻撃の3月15日の直前の13日と14日には勝が西郷と会談、江戸城開城の手筈と徳川宗家の今後などについての交渉を行う。結果、江戸城下での市街戦という事態は回避され、江戸の住民150万人の生命は戦火から救われた。勝は交渉が完全に決裂した時は新政府軍もろとも江戸に火を放つ焦土戦術の準備もしており、その時に備えて将軍の亡命や江戸住民の避難の準備も整えていたが、無血開城によりこの最終手段は実行されなかった。
この会談の後も戊辰戦争は続くが、勝は旧幕府方が新政府に抵抗することには反対だった。一旦は戦術的勝利を収めても戦略的勝利を得るのは困難であることが予想されたこと、内戦が長引けばイギリスが支援する新政府方とフランスが支援する旧幕府方で国内が二分される恐れがあったことなどがその理由である。
明治期維新後も勝は旧幕臣の代表格として外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官を歴任、伯爵を叙された[14]。
投資信託はこうした新政府の役職を得ながらも、仕事にはあまり興味がなく、出勤して椅子に座り、ただ黙っているだけの日々を送っていたという。本人は「部下に仕事を丸投げして、判子を押すだけのような仕事しかしてないよ」と語っている。
座談を好み、特に薩長の新政府に対して舌鋒鋭く批判し続けた。西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允の大きさを、その後の新政府要人たちの器と比較して語っている。
勝と徳川慶喜は、幕末の混乱期には何度も意見が対立していたが、その慶喜を明治政府に赦免させることに晩年の人生全てを捧げた。慶喜はこのおかげで明治天皇に拝謁を許され特旨をもって公爵を授爵し、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を新たに興すことが許されている。その他にも旧幕臣の就労先や生活保護など、幕府崩壊による混乱を最小限に抑える努力を30余年にわたって続けた。幕末には寒村でしかなかった横浜に旧幕臣を約10万人送り込んで横浜港発展に寄与したり、静岡に約8万人送り込んで静岡の茶の生産を全国一位に押し上げたりしたのも勝の功績である。
日経225は日本海軍の生みの親のひとりに数えられる人物でありながら、海軍がその真価を初めて見せた日清戦争には始終反対した。連合艦隊司令長官の伊東祐亨や清国の北洋艦隊司令長官・丁汝昌は、勝の弟子とでもいうべき人物であり、丁が敗戦後に責任をとって自害した際は勝は堂々と敵将である丁の追悼文を新聞に寄稿している。勝は戦勝気運に盛りあがる人々に、中国大陸の大きさや中国という国のありようを説いた。三国干渉などで追い詰められる日本の情勢も海舟は事前に周囲に漏らしており予見の範囲だった。李鴻章とも知り合いであり、「政府のやることなんてぇのは実に小さい話だ」と述べている。
晩年は、ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過ごし、『吹塵録』(江戸時代の経済制度大綱)、『海軍歴史』、『陸軍歴史』、『開国起源』、『氷川清話』などの執筆・口述・編纂にあたったが、その独特な大風呂敷な記述を理解出来なかった読者からは「氷川の大法螺吹き」となじられることもあった。
明治32年(1899年)1月19日に脳溢血により意識不明となり、21日死去。最期に遺した言葉は「コレデオシマイ」であった[15]。
墓は勝の別邸千束軒のあった東京大田区の洗足池公園にある。千束軒はのちの戦災で焼失し、現在は大田区立大森第六中学校が建っている。
FXとして吉本みのるによる『氷川清話』や巌本善治による『海舟座談』がある。これは勝の談話を記者が速記したもので、勝の話し方の細かな特徴まで再現されており、幕末・明治の歴史を動かした人々や、時代の変遷、海舟の人物像などを知ることが出来る。ただし古い版では、当時の政治を批判した部分に、編集に当たった記者による歪曲・改竄のあとが見られるという。
膨大な量の全集があり、維新史、幕末史を知る上での貴重な資料となっている。勝は相当の筆まめであり、かなりの量の文章・手紙等が残っている。この筆力には父親の小吉の影響もある。一人称に「俺」を使う独特の言文一致体的な語りは、父・小吉の自伝『夢酔独言』(平凡社・東洋文庫)と同じである。「清」という登場人物は夏目漱石の『坊つちやん』の素材となっている。
自分の価値は自分で決めることさ。つらくて貧乏でも自分で自分を殺すことだけはしちゃいけねぇよ。
オレは、(幕府)瓦解の際、日本国のことを思って徳川三百年の歴史も振り返らなかった
やるだけのことはやって、後のことは心の中でそっと心配しておれば良いではないか。どうせなるようにしかならないよ。(日本の行く末等を心配している人たちに)
文明、文明、というが、お前等自分の子供に西欧の学問をやらせて、それでそいつらが、親の言うことを聞くかぇ?ほら、聞かないだろう。親父はがんこで困るなどと言ってるよ。
敵は多ければ多いほど面白い。
我が国と違い、アメリカで高い地位にある者はみなその地位相応に賢うございます。(将軍家茂に拝謁した際、幕府の老中からアメリカと日本の違いは何か、と問われて)
コレデオシマイ(亡くなった時の言葉)
ファンといっていいほど高い評価をする人がいる一方、成り上がりとして非常に毛嫌いする人も旧幕時代からいた。坂本龍馬の文久3年の姉(乙女)宛ての手紙には「今にては日ノ本第一の人物勝麟太郎という人に弟子になり」とあり、西郷隆盛も大久保利通宛ての手紙で「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にて、どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候」と書いている。龍馬や西郷のような人物から高く評価されていたことがわかる。
一方、江戸を無血開城した功績は感謝しているものの、旧幕府の高官でありながら新政府に勤めて立身していることに対する嫉妬や反感もある。その決定版が福澤の「痩我慢の説」である。そこでは、幕臣としての節操を護るべきであると非難されている。
勝海舟の仕事は江戸開城をもって終わりとする見方も多いが、明治に入ってからの32年間の行動(明治天皇と慶喜との和解・旧幕臣の名誉回復など)の研究が待たれる。
死の三日後、氷川邸に勅使が来て勅語を賜ったが、この勅語が人物評価の参考になるかもしれない。
幕府ノ末造ニ方リ体勢ヲ審ニシテ振武ノ術ヲ講シ皇運ノ中興ニ際シ旧主ヲ輔ケテ解職ノ実ヲ挙ク爾後顕官ニ歴任シテ勲績愈々彰ル今ヤ溘亡ヲ聞ク曷ソ軫悼ニ勝ヘン茲ニ侍臣ヲ遣シ賻?ヲ齎シテ以テ弔慰セシム
右から三人目が勝トラウマ
9歳の頃狂犬に睾丸を噛まれて70日間(50日間とも)生死の境をさまよっている(「氷川清話」、「夢酔独言」)。このとき父の小吉は水垢離(みずごり)をして息子の回復を祈願した。これは後も勝のトラウマとなり、犬と出会うと前後を忘れてガタガタ震え出す程であったという。
福澤諭吉との関係
木村摂津守の従者という肩書きにより自費で咸臨丸に乗ることができた福澤諭吉は、船酔いもせず病気もしなかった。一方、勝は伝染病の疑いがあったため自室に篭り切り、艦長らしさを発揮出来なかった。福澤は、それをただの船酔いだと考えていたようで、以来勝を嫌っている。
海舟批判書状の『痩我慢の説』への返事
「自分は古今一世の人物でなく、皆に批評されるほどのものでもないが、先年の我が行為にいろいろ御議論していただき忝ないとして、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候。」(世に出るも出ないも自分がすること、それを誉める貶すは他人がすること、自分は預かり知らぬことと考えています。)